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広島県との県境の町飯南町赤名へ行ってきました。
当地に野見という地区があり、これが相撲の始祖野見宿祢の出身地だという伝承があるらしいのです。当地では野見宿祢による町おこしというわけで、講演会入り口ではちゃんこ鍋がふるまわれるし、会場では新たに作られた相撲甚句の披露もありました。なかなか立派な歌でした。
その昔、大和に当麻蹴速(たいまのけはや)という力持ちがいて天下無双と自慢しているのを時の天皇が聞き付け、出雲に野見宿祢というのがいるということで呼び寄せ、自分の前で戦わせたそうです。大和対出雲の天覧試合ですなあ。
野見宿祢は当麻蹴速の脇腹をけ破り、腰骨を蹴り砕いて殺したんだそうです。
天覧デスマッチ。
野見宿祢は出雲国造という記録もあるらしいので、伝承だけで出身地というのは苦しい部分もあるのでしょうが、何せ見てきた人はいないので、銅像でも建ててしまえば通説になってしまうのではという声も聴かれた。
因みに天神さん菅原道真は野見宿祢の十何代目かの子孫なんだそうです。
何はともあれごっちゃんでした。
そして、あーどすこい、どすこい。

日本に約5人いる古代建築学の学者の中で、5本の指に入る先生が講演で述べておられたが、出雲大社は宮殿、伊勢神宮は倉庫(宝庫)なのだそうである。
その原型が現在発掘中の奈良県巻向遺跡にあるのだとか。王の宮殿様式の建物と弥生の稲の倉庫様式のものが一つの敷地内に立っていて、それが現在の出雲大社と伊勢神宮のモデルなのだそうである。
いわれてみると伊勢神宮は弥生の稲倉庫に見えなくもない。
出雲大社は上り口も向かって右側にずれていて、非対称、外から拝むものではなさそうだし、昔は本殿の中でお祭りをして、神様にお供えしたものを直会で本殿内でいただいたらしいから、これは宮殿だなあ。
それに対して伊勢神宮は宝物を外から拝むという形式で中は住むところではなさそうだ。
巻向では王が宮殿に住んでいて、毎日宝庫の宝物を拝んでいたが、宝の威光が強くて住みにくくなったのか、拝みつかれが出て煩わしくなったのか、伊勢のほうに移したのでしょうか。
古事記にも、大国主が国譲りの交換条件として天の宮殿と同じものを建てて欲しいと要求するくだりがあるらしいから、まんざら作り話というわけでもなさそうだし、5本指の先生も「書いてある」と頻りと言っておられたなあ。
発掘が進めばいろいろはっきりしてくるかも。たのしみです。