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木口小平と浜田城址(1)

 DSCF3639 浜田護国神社敷地内木口小平像
DSCF3641同上

「えーか、お前やつ。
浜田連隊の木口小平はなあ、
敵の弾が中って死んでもなあ、
ラッパを離さんだったんだぞ。
お前やつも死んだつもりで吹け!」

これは自分が中学生のころ吹奏楽部で受けた訓戒の言葉である。
何故か半世紀を経たいまだに記憶に生々しい。
先日偶さかに浜田城へ行ってみようとて、駐車場でその木口小平の像と遭遇したのである。
もともとは昭和7年に歩兵第21連隊で建てられたものらしいが、昭和25年に浜田護国神社に移設されたものらしい。しかし、その時はどうやら銅像は供出されて台座だけだったようだ。
それを昭和36年に日本郷友連盟という団体が再建したのがこの写真の銅像ということのようだ。

喇叭手木口小平君岡山県川上郡成羽町人也 明治二十七年清国構事於□林也 君受充員之命来属我連隊□・・・・・・・・・・・・・・ 皇軍出征連隊始戦□成歓也 敵兵抗戦最激第十二中隊長松崎大尉挺進奮戦遂傷□弾□而叱咤命進声不絶於口而倒 君奉命吹奏突撃之譜以鼓士気 遇一弾飛来貫其喉頭而君不少屈一声則高一声則低一声 時断而復続既而気力将声努而一吹殷血迸出於喇叭口者如花而絶□而猶堅執喇叭不離之於口也 □偉哉其忠誠之志也□烈哉其責任之念也・・・・・・・・・・皇運者永世不泯也我曹之微志亦可以酬□
昭和七年四月   歩兵第二十一連隊長   荒川眞郷
(碑文より抜粋)

漢文は読めないけれど、字を眺めているだけで雰囲気が伝わってくるのは漢字の象形文字たる特質でしょうか。日清戦争、成歓にて傷ついた司令官の命を受けて進軍ラッパ(喇叭)を吹き、のどに被弾したのちも喇叭の朝顔から血が噴き出して花の様になっても、まだ口からラッパを離さなかったのはなんと立派な忠誠心、責任感であろうか・・・・という感じかな。

続いて戦後昭和三十六年の銅像再建の趣旨碑文より

木口小平之像再建の趣旨
夫れ鋒鏑砲火の下に万創を被り諦観して従容死に就くは寧ろ易なり。身に致命の一弾を受けて尚屈せず毅然として職責を守るは難中の難なり。古来義を行い斃るる後已むを勇士となす。
日清戦争役成歓牙山の戦斗に於て我が浜田連隊の喇叭手木口小平勇士に飛弾咽喉を貫ぬき熱血口腔に溢れて尚已まず勇を鼓して起ち昂然として喇叭手の本領を守り気息絶えて尚且つ其の姿勢を崩さずと。その□□たる気概其の耿耿たる赤誠古来の偉人名将のそれと何逕庭あらんや。遮莫這次大戦末期旧銅像雄々しくも応召礎石空しく藁萊の間に没することここに十有余年に及ぶ。惟うに世を挙げて滔々たる唯物利己の時流に溺れ道義頽廃して責任観念蕩然として地を払わんとする秋、勇士の偉烈を追慕欽仰すると共に之れを顕彰讃揚し以て国民道義の昂揚に資せんが為篤志の浄財を以て浜田護国神社の聖域を卜し銅像を再建して当時の融資を象徴し永く後昆に伝えて児孫百代の亀鑑たらしめんとす。
茲に謹みて銅像再建の趣旨を誌す。
昭和三十六年十一月吉祥

社団法人日本郷友連盟島根県支部会長  古東要

あー疲れた。
半世紀余り前に、道義が廃れたのを嘆いておられるが、今の世の中をのぞかれたら会長さん多分ひっくり返るのではないだろうか。
興ざめだが、ラッパを口から離さなかったのは単に死後硬直という説もあるようだ。おっと先人を侮辱するようなことは慎まなければ。

続いて再建趣旨の英訳分が続く。なぜ英訳が必要なのか?

Purport of Erecting the Statue Hero Kohei Kiguchi

 It is rather easy for warriors to die composedly under enemy fire, but it is the most difficult deed to discharge their duties to the moment of death firmly.
From older days, he who died for justice's sake has been honored and worshipped as a hero. In the battle of Seikan Gazan fought in the Sino Japanese War in 1894, Kohei Kiguchi a bugler of the Hamada Infantry Regiment was severely wounded by a bullet which pierced his throat and the blood gushed to his mouth.
Inspite of this, mustering all his strength he managed to stand up and continued his duty as a bugler with the bugle still firmly pressed against his mouth when he breathed his last.
A man of such sense of responsibility and braery cannot help but be admired and cannot and must not be forgotten for ever.
Well it has passed years more since the old statue of his was contrubuted to the Nation.
At a time when materialism and egoism is sweeping the world and morality and sense of responsibility are about to be forgotten, we deem it most appropriate to erect his statue of our hero Kohei Kiguchi in the sacred precinct of the Hamada Gokoku Shrine by general contribution of our fellow citizens dedicating it to his memory and praise and posterity with the hope that may serve to elevate the morality of the nation.
With deepest reverence I hereby inscribe the purport of the statue this 23rd day of November 1961.
On behalf of the promoters.

Kaname Koto
Chairman Shimane Prefecture Branch,
Juridical Association Nippon Goyu Renmei
-translated by Kojin Ishibashi

因みに胃腸薬正露丸のラッパのマークは木口小平のラッパがモデルになっているとかいないとか。もとは日露戦争の時、ロシアを征するというので、征露丸といったのだとか。
ところで木口小平の話は戦前まで尋常小学校の修身教科書に載っていたのだそうです。

キグチコヘイ ハ
テキ ノ タマ ニ
アタリマシタ ガ
シンデモ ラッパ ヲ
クチ カラ ハナシマセンデシタ

DSCF3657浜田護国神社

神社の参道の右手に木口小平銅像、右手奥の山が浜田城址